生誕90年 増村保造監督の世界

 

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増村保造監督増村保造監督
1924年8月25日山梨県甲府市に生まれる。旧制第一高等学校、東京大学法学部と秀才コースを歩む。47年、戦後の混乱の最中に大映の助監督募集に合格。52年、ローマの国立映画実験センターへ留学し、世界の映画史を系統的に学ぶ。55年に帰国後、溝口健二、市川崑などの助監督を務め、57年『くちづけ』で監督デビュー。一躍ニューウェーブの映画監督として脚光を浴びる。以後も大映で作品を作り続け、女優では若尾文子、野添ひとみ、岸田今日子、安田(大楠)道代、緑魔子、男優では市川雷蔵、勝新太郎、田宮二郎、川口浩といった名優たちと組み、『巨人と学校』『痴人の愛』『盲獣』など、多岐にわたるジャンルで玩具』『刺青』『卍』『黒の試走車』『兵隊やくざ』『陸軍中野学校』『痴人の愛』『盲獣』など、多岐にわたるジャンルで代表作を残す。60年には東大法学部の同級生・三島由紀夫主演で『からっ風野郎』を監督。大映での15年間に手がけた作品は48本。年に4~5本も監督するという大車輪の働きを見せながら、しかし手抜きはまったくなく、そのいずれの作品も高い評価を受けた希有な存在だった。71年の大映倒産後は、プロデューサーの藤井浩明、脚本家の白坂依志夫と共に独立プロダクション「行動社」を設立。その第1回作品の『音楽』は、三島と親交のあった増村・藤井の旗揚げを祝って三島夫人から映画化権が提供された作品だった。その後、『大地の子守唄』『曾根崎心中』などの傑作を発表したほか、テレビの分野でも活躍、
『ザ・ガードマン』『赤いシリーズ』『スチュワーデス物語』のヒットに貢献する。86年11月23日、脳内出血で死去。享年62歳。82年の『この子の七つのお祝いに』が遺作となる。生涯に残した監督作品は57本を数えた。

 


増村保造監督三島由紀夫略歴
1925年1月14日、東京生まれ。本名は平岡公威(きみたけ)。31年学習院初等科に入り、高等科まで学ぶ。この時代に文学活動を開始し、第1作品集『花ざかりの森』(44年)を刊行。20歳で敗戦をむかえるが、敗戦を何ものかの喪失と感じた時代感覚は、のちに三島の思想の根幹を形づくる。47年に東大法学部を卒業。大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。49年に最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行して作家としての地位を確立、唯美的傾向と鋭い批評精神を特質とする数々の作品を発表。52年、ギリシア訪問を契機に、ギリシア的な健康への希求が生まれ、牧歌的な小説『潮騒』(54年、新潮社文学賞)を発表。のちにボディビルで肉体を鍛える伏線を形づくった。56年に『金閣寺』(読売文学賞)で芸術的な一つの到達点をきわめた。60年安保のあと二・二六事件に取材した『憂国』(61年)、65年には『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)を発表。67年に自衛隊に体験入隊、68年に〈楯の会〉を結成し、70年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地へ会員と共に日本刀を携帯して乱入し、自衛官の決起をうながしたが果たせず、舎弟森田と割腹自殺した。享年45。小説・評論のほか戯曲の数々も手がけたほか、映画にも大きな関心を示した。『からっ風野郎』(60年、増村保造監督)に主演したほか、ゲスト出演も多数、多くの代表作が内外で映画化されている。いまもミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読されている。

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