“映画の天才”羽仁進映画祭

 

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原節子蔵原惟繕 略歴
◆1927年5月31日、旧英領ボルネオ・サラワク王国クチン市(現マレーシアのサラワク州クチン)に生まれ、幼少期をボルネオで過ごす。ゴム園の農業技師だった父親の転勤により、35年に東京へ、そして37年に神戸に移住。御影第三小学校から45年3月に関西学院中等部終了後、海軍特別幹部練習生となり、入隊して広島県賀茂郡郷原村(現呉市郷原)で陸戦訓練中に広島原爆を目撃する。戦後復員し、46年に日本大学芸術学部映画科に進む。在学中に本多猪四郎の紹介で、山本嘉次郎の家に書生として住み込む。イタリアン・リアリズムの作品に薫陶。◆52年、大学卒業後、松竹京都撮影所に入社し助監督となる。54年日活の製作再開で同社に移り、滝沢英輔、中平康、鈴木清順らの助監督を務める。56年、宝塚スターの宮城野由美子と結婚。57年、石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』で鮮烈な監督デビューを飾る。大胆なカメラアングルとカメラワークで注目を浴び、『第三の死角』(59)、『地獄の曲がり角』(59)、『ある脅迫』(60)など、作家性と娯楽性の両面を備えたプログラム・ピクチャーを手掛けた。そして裕次郎主演のひとつの頂点をなす『銀座の恋の物語』(62)、『憎いあンちくしょう』(同)を発表。興行的にも大ヒットし、それは脚本家・山田信夫との出会いもあって、日活黄金期を代表する作品となった。小林旭、宍戸錠主演による日活アクションを手掛ける一方、ジャズのリズムにのせて強烈なイメージを創り出した『狂熱の季節』(60)、『黒い太陽』(64)、そして浅丘ルリ子の主演の『執炎』(64)、『夜明けのうた』(65)、『愛の渇き』(67)などの女性映画の傑作など、まさに日活のエースとして八面六臂の活躍を見せた。◆67年、フリーとなり、69年に石原プロ製作の大作『栄光への5000キロ』を監督し大ヒット。以降も海外で撮影した『陽は沈み陽は昇る』(73)、 『雨のアムステルダム』(75)などの大作を発表。78年の『キタキツネ物語』は動物映画ブームを巻き起こし大ヒット。『青春の門』(81)、『青春の門 自立篇』(82)と大河ドラマに天性の輝きを放つ一方、83年の『南極物語』は配給59億円の大ヒットを記録し、97年に『もののけ姫』に抜かれるまで日本映画の配給収入歴代1位だった。その後も、『春の鐘』(85)、『道』(86)、『海へ See Tou』(88)などの大作を作り続けた。◆2002年12月28日、肺炎のために死去。享年75歳。91年の『ストロベリーロード』
が遺作となった。2008年、第9回東京フィルメックスで「蔵原惟繕監督特集~狂熱の季節」を開催。2017年、生誕90年、没後15年を迎えた。

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