生誕100年 映画監督 加藤泰の仕事

 

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加藤泰 略歴

松竹120周年祭、煌めく!日本映画史。時代を鼓舞し続けた名作・娯楽傑作42本一挙上映!1916(大正5)年8月24日、神戸生まれ。本名・泰通。5歳の頃、父の仕事の関係で名古屋に移る。伊藤大輔作品を始めとする時代劇に夢中になり、して呼ばれ、短篇文化映画の監督としてデビュー。44年、再び八木の協力によって満洲映画協会に移り、そのまま敗戦を迎える。46年に帰国し、翌47年、助監督として大映京都撮影所に入社し、伊藤大輔の『王将』(48年)や黒澤明の『羅生門』(50年)などに付くが、50年9月吹き荒れたレッドパージによって解雇。折しも設立された宝プロに入社、51年『剣難女難』二部作で念願の長篇劇映画デビューを飾る。56年、東映京都撮影所からまたも助監督として招かれ、1年間助監督を務めた後、57年に『恋染め浪人』で再デビュー。58年『風と女と旅鴉』によって、ローアングルのキャメラ、シン時に、妥協を許さぬ撮影方針は、プログラム・ピクチャー全盛期の映画会社から疎まれることになった。60年代から70年代にかけて『瞼の母』『三代目襲名』『遊侠一匹』、そして「非牡丹博徒」シリーズといった傑作を連発。女と男の情感、体制に対する憤怒を映像美にまで昇華させたこれらの作品は、日本映画史上の金字塔となる。72年から73年にかけて松竹で『人生劇場』『花と龍』『宮本武蔵』の大作3本を撮った後は、撮影所システムの崩壊と共に監督本数も激減し、81年の『炎のごとく』が最後の劇映画となる。85年6月17日、68歳で死去。82年に撮った遺作となった長編ドキュメンタリー映画『ざ・鬼太鼓座』は、死後の94年にやっと公開された。生涯で4本の短篇映画と42本の長篇映画、1本のテレビ作品を監督として残した。亡くなる前に入稿した『映画監督 山中貞雄』は亡くなった3カ月後に刊行(キネマ旬報社)。わずか28歳で戦病死した叔父への愛に満ちた評伝だった。現在でも購入可能な加藤泰関連書籍は、前書の他、『加藤泰、映画を語る』(ちくま文庫)、『加藤泰映画華―抒情と情動』(ワイズ出版映画文庫)などがある。

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