小津安二郎よりも、溝口健二、黒澤明、成瀬巳喜男よりも「キネマ旬報ベストテン」で最多の入選を誇る映画監督・今井正。
とりわけ日本映画の黄金期であり、名匠たちが作品を競った五十年代は毎年のようにランクイン。数々の傑作を世に送り
出した巨匠・今井正監督の生誕百年(1月8日)を記念して、生涯の四十八作品から、戦後の代表作二十五本を一挙上映!!
◆1912年(明治45年)1月8日、東京都渋谷に住職の子として生まれる。水戸高校から東京帝国大学に入学するも35年に中退。高校時代からマルクス主義に関心を持ち、左翼運動に関わり数回に渡って検挙される。大学中退後、J.O.スタヂオ(現・東宝)に入社。並木鏡太郎、中川信夫などの助監督をつとめ、同僚には市川崑がいた。J.O.が合併して東宝映画が設立された1937年、入社2年目にして早くも監督昇進。しかし監督デビュー作『沼津兵学校』は出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、2年後の1939年に公開された。第二次世界大戦中は、自らの信念とは別に戦意高揚映画を製作。1943年、西部劇さながらのアクション・シーンを取り入れたプロパガンダ映画『望楼の決死隊』が皮肉にも注目を集める。日本の武装警官が朝鮮の抗日ゲリラを撃退する作品で、後年今井はこれら戦意高揚映画を作ったことに対し「私の犯した誤りの中でいちばん大きい」と述べ、つらい過去を隠蔽することなくその後の作品の中で捉え直し続けた。◆戦後は、数々の戦後民主主義啓蒙映画を手掛け、1946年、戦後第1作で戦時中の財閥の腐敗を描いた『民衆の敵』で第1回毎日映画コンクールの監督賞を受賞。1949年、青春映画『青い山脈』前後篇を監督、同名の主題歌とともに大ヒットし、ベストテンの第2位に選ばれる。1950年、ガラス窓越しのキスシーンが話題になった『また逢う日まで』でキネマ旬報ベストテン第1位に輝く。この頃から、自由に作品を作りたいと感じ、東宝から独立してフリーの監督として作品を次々と発表した。しかし、東宝争議で中心的人物として動いたため、映画会社5社から締め出し(いわゆるレッド・パージ)、生計を立てる為に一時期、屑物の仕切り屋を開業していた。同様に解雇された左翼系映画人たちが次々と独立プロを立ち上げる運動が活発となり、今井はその1番手として映画製作を再開する。山本薩夫、亀井文夫らと独立プロ・新星映画社を創立し1951年、前進座と組んだ『どっこい生きてる』、1952年『山びこ学校』を監督。1953年、当時は新興まもない東映に招かれて、『ひめゆりの塔』を製作、大ヒットを記録。その後、再び独立プロに戻り、『にごりえ』(ベストテン第1位、2位は小津安二郎の『東京物語』)、『ここに泉あり』とヒューマニズムと社会正義を前面に打ち出した瑞々しい作品を数々発表。1956年には、日本における裁判批判映画の最初の作品『真昼の暗黒』を製作。東映においても社会派映画を次々と発表。1957年、初のカラー作品『米』と続く『純愛物語』は映画賞の1位・2位を独占し話題を呼んだ。1959年の人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』も代表作のひとつ。戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた作品を発表し続けた。◆『また逢う日まで』『にごりえ』『真昼の暗黒』『米』『キクとイサム』とキネマ旬報ベストテン第1位が5回、“ベストテン男”の異名を持つ。1963年、封建社会の残酷さを描く『武士道残酷物語』で、ベルリン映画祭グランプリを受賞。1969年、ほるぷ映画を創立。しかし、1971年、『婉という女』を完成後、資金難から解散。1972年、古巣の東宝に招かれて反戦映画『海軍特別年少兵』を発表する。91年、9年ぶりに撮った『戦争と青春』完成後、その上映キャンペーンの最中、埼玉県草加市でくも膜下出血で倒れ、1991年11月22日死去。享年79。生涯監督作品は48本。◆1912年(明治45年)1月8日、東京都渋谷に住職の子として生まれる。水戸高校から東京帝国大学に入学するも35年に中退。高校時代からマルクス主義に関心を持ち、左翼運動に関わり数回に渡って検挙される。大学中退後、J.O.スタヂオ(現・東宝)に入社。並木鏡太郎、中川信夫などの助監督をつとめ、同僚には市川崑がいた。J.O.が合併して東宝映画が設立された1937年、入社2年目にして早くも監督昇進。しかし監督デビュー作『沼津兵学校』は出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、2年後の1939年に公開された。第二次世界大戦中は、自らの信念とは別に戦意高揚映画を製作。1943年、西部劇さながらのアクション・シーンを取り入れたプロパガンダ映画『望楼の決死隊』が皮肉にも注目を集める。日本の武装警官が朝鮮の抗日ゲリラを撃退する作品で、後年今井はこれら戦意高揚映画を作ったことに対し「私の犯した誤りの中でいちばん大きい」と述べ、つらい過去を隠蔽することなくその後の作品の中で捉え直し続けた。◆戦後は、数々の戦後民主主義啓蒙映画を手掛け、1946年、戦後第1作で戦時中の財閥の腐敗を描いた『民衆の敵』で第1回毎日映画コンクールの監督賞を受賞。1949年、青春映画『青い山脈』前後篇を監督、同名の主題歌とともに大ヒットし、ベストテンの第2位に選ばれる。1950年、ガラス窓越しのキスシーンが話題になった『また逢う日まで』でキネマ旬報ベストテン第1位に輝く。この頃から、自由に作品を作りたいと感じ、東宝から独立してフリーの監督として作品を次々と発表した。しかし、東宝争議で中心的人物として動いたため、映画会社5社から締め出し(いわゆるレッド・パージ)、生計を立てる為に一時期、屑物の仕切り屋を開業していた。同様に解雇された左翼系映画人たちが次々と独立プロを立ち上げる運動が活発となり、今井はその1番手として映画製作を再開する。山本薩夫、亀井文夫らと独立プロ・新星映画社を創立し1951年、前進座と組んだ『どっこい生きてる』、1952年『山びこ学校』を監督。1953年、当時は新興まもない東映に招かれて、『ひめゆりの塔』を製作、大ヒットを記録。その後、再び独立プロに戻り、『にごりえ』(ベストテン第1位、2位は小津安二郎の『東京物語』)、『ここに泉あり』とヒューマニズムと社会正義を前面に打ち出した瑞々しい作品を数々発表。1956年には、日本における裁判批判映画の最初の作品『真昼の暗黒』を製作。東映においても社会派映画を次々と発表。1957年、初のカラー作品『米』と続く『純愛物語』は映画賞の1位・2位を独占し話題を呼んだ。1959年の人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』も代表作のひとつ。戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた作品を発表し続けた。◆『また逢う日まで』『にごりえ』『真昼の暗黒』『米』『キクとイサム』とキネマ旬報ベストテン第1位が5回、“ベストテン男”の異名を持つ。1963年、封建社会の残酷さを描く『武士道残酷物語』で、ベルリン映画祭グランプリを受賞。1969年、ほるぷ映画を創立。しかし、1971年、『婉という女』を完成後、資金難から解散。1972年、古巣の東宝に招かれて反戦映画『海軍特別年少兵』を発表する。91年、9年ぶりに撮った『戦争と青春』完成後、その上映キャンペーンの最中、埼玉県草加市でくも膜下出血で倒れ、1991年11月22日死去。享年79。生涯監督作品は48本。
